常識があるということ
平成19年3月9日
有限会社 ワイズシステム
代表取締役 横井嘉邦
<常識の無い子供>
私には小学生の娘がいる。まだ幼い頃のこと、穴の形に合わせてその中に積み木を入れる知育おもちゃで遊んでいた。丸い穴にはボールの形をした積み木を入れ、四角い穴には四角い形の積み木を入れるのだ。想像してもらいたいのだが、丸い穴にはそこに置いただけで穴の中に入っていく。しかし、四角い穴には積み木の向きが合わないと入っていかない。遊んでいる様子をじっと見ていると、やはり四角い穴で四苦八苦しているようだ。しばらくしても、うまくいかないので、娘に向きを合わせるようにアドバイスした。私がお手本を示してやるとうまくいくのに自分でやるとどうしてもうまくいかない。そのうち、かんしゃくを起こすことになる。なぜ思うとおりに出来ないのか、娘は理解できなかった。大人の私にしてみると、なぜ理解できないのかが逆に分からない。「そんなの常識だろ」の世界である。
子どもはいつも一生懸命なのだが、実に要領が悪く、なんで分からんのかと突っ込みを入れたくなることが多くある。大人の判断なら迷うことなく右の道へ行くところを、なぜか左の道へ行ってしまう。「常識」の無いのが子どもである。
話は変わるが、最近、公私共に何かと忙しい。次から次と課題や問題が起こる。一難去らずにまた一難といった具合だ。自分の能力を超えた難題もたまに起こる。そんな時、「人生の達人ならどう解決するのだろうか」とか、「世の中にはもっとうまい方法があるんだろうな」と、自分の無能さを痛感することも多い。
<常識とは>
さて、「常識」という言葉を何度も使ったが、常識とはなんだろうか。大人であればみな常識があるのかと言えばそうとも限らない。ある分野の専門家が常識と思っていることが、専門外の者からすればきわめて非常識なことはよくあることだ。だとすると、先ほど書いた親から見た子どもの非常識さは、その道の達人から見た凡人の姿と同じなのではないだろうか。達人から見ると、なんでそんなところで悩んでいるんだ。答えはこれしかないだろ。ということに凡人は悩んでいるのにちがいない。もしかしたら、自分が出来ないと思っていることが、実は発想を変えれば解決することで、積み木の向きを合わせることに気づかないだけかもしれない。分かってしまえば、大したことではないのだ。常識とは意識しなくても理解できている知識、言い換えると潜在意識レベルで理解した知識のことを言うのかもしれない。
生活しているといろいろな難題が降りかかってくる。一説によると、神様は人の実力と状況に応じて難題という壁を用意して与えてくるらしい。目の前の壁を避けて、もっと楽な道がないかと回り道をしてもまた別の形でその難題を与えてくるのである。壁の向こうに行きたければ、目の前の難題を克服しなければならない。壁を乗りこえる準備が出来たとき、積み木の向きを変えることに気づかせてくれる。そして、なぜ乗り越えられたか気づかないまま、いつしかそれは常識となっていくのである。